文武両道とは
文武両道(ぶんぶりょうどう)は、日本語で、文字通りには「文学(文)と武道(武)の両方の道」を指す。この言葉は、知識と体力、または精神と技術の両面でバランスの取れた発展を促すことを指している。皆さんもよく耳にするし、目標に掲げたことがあるのではないだろうか。そもそも「文」と「武」は別の道なのだろうか。運動をすることが脳に与える影響を見ていくと、その道は繋がっているのではないかと思わされる。アメリカ、シカゴにあるネーパーヴィル・セントラル高校は、「0時限目」に心拍数を上げる運動を取り入れて、TIMSSという数学と理科の能力を国際比較するテストにおいて理科では世界1位、数学でも6位という成績を残した。ちなみに全米の成績は理科が18位、数学19位だった。運動が生物学的変化を引き起こし、脳のニューロンを結びつけることがわかっている。学習とは、情報を伝達するためにニューロンどうしを新しく結びつけることを意味する。運動をするとニューロンがより効果的に情報伝達できるようにする、セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンなどの神経伝達物質の量が増えることが分かっている。つまり、運動をすることで学習効率を上げる準備が整い、記憶力や集中力が高まったり、感覚が研ぎ澄まされたりするのだ。よって、「文」と「武」は別の道ではなく、お互いが影響し合い、「一本の道」を拡げる役割がある。
心身相関とは
現代はストレス社会と言われる。ストレスと言っても、社会的ストレス、肉体的ストレス、代謝性ストレスといった具合に、慢性的なものから急性のものまで、その形も大きさもさまざまだ。生物学的な定義は、ストレスは「体の均衡を脅かすもの」だ。ニューロンの活動を引き起こすものはなんでもストレスとなる。ニューロンが発火するにはエネルギーが必要で、燃料を燃やす過程でニューロンは摩耗し、傷ついていく。ストレスという感覚は、基本的には脳細胞が受けているこのストレスが、感情に反響したものなのだ。また、不安についても脳が関係している。神経学的には、不安とは危険の記憶である。扁桃体が警報を響かせて不安をもたらすが、通常のストレス反応と違い、警報解除信号が適切に作動しない。何も問題はないとか、問題が片付いたからもうリラックスしてよいなどと、認知の処理装置が教えてくれないのだ。こうした認識のズレは、前頭前野が扁桃体をしっかりコントロールしていないためだ。過度に興奮した扁桃体は、なんでもない状況を生命を脅かす危機と見なし、記憶に焼き付ける。記憶がつぎつぎに恐怖と結びつき、不安が膨張してしまうのだ。さらに、うつの症状もニューロンのつながりが蝕まれた状態である。うつの症状は幅広く、食欲がない、眠れない、過食気味、疲労感がひどい、朝ベットから出られない、無力感に陥って引きこもる人もいれば、あらゆる人やものに喧嘩をふっかける人もいる。実際に、うつ病患者は海馬が萎縮しているのだ。現代社会の大きな問題である「ストレス」「不安」「うつ」は全て、脳細胞の中で起こっている変化に起因している。
以上のような、心の不調に対して、運動が万能薬になる。運動をすることで脳の活動が活性化し、ニューロン新生を促す。また運動はニューロンの新生に重要な役割を果たすタンパク質群のBDNFの分泌量を増やす。運動をすると体の筋肉の張力が緩むので、脳に不安をフィードバックする流れが断ち切られる。筋肉がはたらき始めると、体は燃料を供給しようと脂肪を分解し、タンパク質と結合すると必須アミノ酸が脳に入っていく。それがセロトニンの構成材料になり、安心感を高める。運動によって起きる一連の化学反応には気持ちを落ち着かせる効果がある。さらに、運動をするとノルアドレナリン、ドーパミンをなどの神経伝達物質を放出する。ノルアドレナリンは、脳のはたらきを目覚めさせ自尊心を回復させ、ドーパミンは気持ちを前向きにし、幸福感を高め、注意システムを活性化させる。つまり、ストレスや不安、うつなどの解消するには、運動をすればいいのだ。体に良いことは、心にも良いこと。そしてそれがまさに「心身相関」なのだ。
ADHDには運動が一番
ADHD(注意欠陥・多動性障害)とは、注意散漫で集中力がなく、突飛な行動を取ったり、整理整頓が苦手だったりする特徴を持つ人を指す。彼らは壁にぶつかるほどの勢いで駆けまわり、少しもじっとしていられない。椅子に座らせると体のあちこちをいじったり、貧乏ゆすりをしたり、いたずら書きをしたり、手遊びをしたりする。忍耐力がないので、周囲の邪魔をするし、考えなしにものを言う。総じてじっくり仕事に取り組むのが苦手だ。ひとりで遊ぶのに耐えられず、学校でうまくやれないと、あえて道化を演じることも多い。社会性はあるが、社会的な合図を見逃すため、行動に不器用なところがある。また、多動性の一部として、衝動的なところがある。良くも悪くも反応が過剰で、すぐ感情的になったり、怒ったりする。このような特徴は、脳の注意システムがうまく働かない結果だ。このシステムは、覚醒、やる気、報酬中枢、遂行機能、そして動作をつかさどる部位がニューロンでつながってできている。その実体は、脳幹にある覚醒中枢の青斑核を起点として四方に広がる双方向のネットワークで、脳全体に信号を送って目覚めさせ、注意を喚起している。注意システムの回路を調節しているのは、神経伝達物質のノルアドレナリンとドーパミンだ。前述しているように、運動をするとこれらの神経伝達物質が生成される。ADHDには、武術やバレエ、フィギュアスケート、体操など、枠組みのしっかりした運動や、ロッククライミング、マウンテンバイク、急流でのパドリング、スケートボードなどの激しい運動の最中に複雑な動きがあるものが効果的だ。脳と体の両方に負荷をかける運動は、有酸素運動だけするより効果が高い。このようなスポーツの動きは、脳の幅広い部位ーバランス、タイミング、動きのつながり、結果の予測、切り替え、エラーの是正、運動の微調整、活動抑制、過剰な集中をコントロールする部位ーを活性化させる。よってADHDは、毎日定期的に激しく複雑な運動を習慣にすることでコントロールできるようになる。
依存症から立ち直る
依存症と一言でいっても多くの種類がある。アルコール、カフェイン、ニコチン、薬物、セックス、炭水化物、ギャンブル、テレビゲーム、買い物などだ。依存症患者は基本的に快楽を求めているのだと見られていたが、それは最初だけであって、脳の構造に変化が生じる。鍵となるのは、快楽よりも、「突出」した刺激のようだ。日常生活において際立っているもの、他のどの刺激よりも勝るものを指す。快楽と痛みの合図はどちらも側坐核に大量のドーパミンを流し注意喚起をして、生き残るための行動が取れるようにする。したがって、薬物によって大量のドーパミンが放出されると、脳はその薬物に注意を向けることが生死にかかわるほど重大なことだと誤解をしてしまう。依存の対象が薬物でもギャンブルでも食事でも、脳に起きる変化は同じだ。いったん報酬が脳の注意を引くと、前頭前野はそのシナリオと感覚を詳しく記憶するよう海馬に指示する。こうした合図が「突出」し、つながって記憶されていく。通常、わたしたちが何かを学ぶとき、その回路ができあがるとドーパミンレベルは次第に下がっていく。しかし依存症の場合は、ドーパミンがシステムにあふれ、記憶を強化し、他の刺激をはるか後方へと押しやってしまう。
運動は、脳を活発にし、依存から気持ちをそらすことができる。大脳基底核を再プログラミングして別の行動につながる回路を作る。体を動かしていると、自分はなにかをなし遂げることができると思えるようになる。依存の対象を断つと、あとに残るのは空虚な気分だ。心の隙間を埋める最善の選択肢が運動だ。運動は、解毒剤としては脳内でトップダウンの方向に作用する。依存症者はその新たな刺激に慣れるにつれて、今までとは違う健康的なシナリオを学び、楽しめるようになる。運動をすれば、より広範な幸福感が少しずつ全身に広がり、長く続けるうちに、しないではいられなくなる。一方、予防注射としては、ボトムアップの方向で作用する。脳のより原始的な部位を活動させ、依存対象への欲求を鈍らせるのだ。運動をすることでシナプスの迂回路が生まれ、依存対象を求めつづける既存の回路を使わなくてすむようになる。
運動が女性に効果的な理由
女性が生涯つきあっていかなければならない問題として、ホルモンの変化による影響がある。とりわけ、PMS(月経前症候群)、妊娠、閉経に関わるホルモンバランスの変化は大きな問題だ。PMS時の女性の脳は、トリプトファン(セロトニン前駆物質)を前頭前野にうまく「取り込む」ことができず、そのせいでセロトニンの生産が抑えられていることがわかった。妊娠中は、エストロゲンとプロゲステロンが通常よりはるかに高いレベルを維持している。人によっては気分が安定し、不安感や憂うつな気分が和らぐ。しかし産後には、ホルモンが急激に減少することによって、うつを引き起こしやすくなる。同様に、年をとって卵巣の働きが活発でなくなると、エストロゲンとプロゲステロンの生産が衰え、散発的になってくる。それが原因でほてり、寝汗、怒りっぽさ、情緒不安定などの症状が出る。
女性が運動をすることは、血流中のトリプトファンのレベルを上げ、それにともなって脳内のセロトニン濃度が上がる。また、ドーパミン、ノルアドレナリン、それからBDNFのようなシナプス伝達を調整する物質のバランスを整える効果もある。このように多くの変数を安定させることにより、運動はホルモン変化がもたらす心身の反応をターンダウンさせている。妊娠中に運動をすると、母体と胎児をつなぐ燃料供給ラインが強化され、胎児が必要とする栄養と酸素が確実に届くようになる。さらに、子宮内の胎児がゆさぶられることは、赤ん坊が撫でられたり抱かれたりするのと同様の刺激があり、明らかに脳の発達を促すという研究結果もある。日常的に運動をする女性は、産後や閉経後に起こるホルモンの減少による不調を整え、認知機能の低下を抑制する。
齢を重ねる
これまで体と脳の生物学的なつながりについて説明してきた。それが最も重要な意味をもつのは、老化について考える時だ。結局、健康な心は健康な体があってこそのものだ。高齢者は、急な病気ではなく、慢性疾患によって亡くなる場合が多い。年をとると、身体中の細胞がストレスへの適応力を失っていく。細胞は古くなるほど、フリーラジカルによる酸化ストレスや過度のエネルギーの要求、過度の興奮などに立ち向かう力が弱くなる。さらに、有害なゴミを掃除するタンパク質を生成するはずの遺伝子がその仕事をやめてしまうと、「アポトーシス(細胞の自死)」のスパイラルが始まる。脳では、ストレスのせいでニューロンが弱くなると、シナプスが蝕まれ、最終的にはつながりが切れてしまう。シナプスの衰えるスピードが新たな結合の生まれるペースを上回るようになると頭と体の機能にさまざまな問題が生じてくる。それにはアルツハイマー病やパーキンソン病も含まれる。認知力の衰え、感情が乏しくなるなどの加齢による症状は、脳の機能低下に他ならない。
運動は老化の進行を阻むことのできる数少ない方法のひとつだ。脳の衰えを防ぐだけでなく、老化にともなう細胞の衰えを逆行させる。また、運動によって人との交流が生まれ、元気に外出できるようになれば、活力が生まれ、脳の回復力が増す。運動が高齢者にとくに目覚ましい効果を発揮するのは老化とともに減少するドーパミンの量を回復させてくれるからだ。ドーパミンは報酬と意欲のシステムにおいて信号を伝える神経伝達物質なので老化の鍵を握っている。
参考文献
脳を鍛えるには運動しかない! 著者 ジョン・J・レイティ NHK出版 2009年3月20日 第1刷発行
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